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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 292

やわらかい風   ぴかろん

精悍な顔と程よく締まった体からは想像し難い足取りで路地を歩くイナを認めると、テジュンは相好を崩した
そのギャップがたまらない…などと口走ると、みるみる唇が尖がって悪態をつくだろう
朝、目を覚ました時イナの姿が無く、寂しさに襲われて取り乱す自分を、そこにいた皆が慰め宥めてくれた
ただ、自分と同じ顔の男二人と、イナを慕う『弟バカ』一人の慰め方は、あまり嬉しいものではなかった
取り乱して散々当り散らしたお礼とばかりに、やれお前に愛想をつかしただのやれ『違う顔』を求めて旅に出ただの、冗談だと解っていても癪に障る言葉を浴びせかけられたのだ
そんな中、スヒョクだけは温かい笑顔でこう言ってくれた

―きっとパンを作りに行ったんですよ
―そ、そうかなっ?そうだよねっ!
―心配しなくても大丈夫。イナさん今はテジュンさんに揺れてますから

僕に『揺れる』?

その意味をあれこれ考えながら、テジュンは午前中、仕事をこなした
昼から休みますとジャンスに宣言し、casaの駐車場まで車を飛ばした
愛しい男はここに居て、昼の休みになれば外に出てくるはずだと、確信を持ちながらも少々の不安があった
とことこと無防備に歩くイナを見て、テジュンはほっとした


その顔を見つけたイナは歩を留め息を呑む
自分が上ずり始めたのがわかった
見慣れた顔がいつものように微笑んでいるだけなのにイナの心臓は大きく鳴り出し、体が思うように動かない
どうしていつものようにあの胸に向かって飛び込めないのかがわからない
そこへ行きたいのに前に進めないなんて
微笑みすら作れないなんて
握り締めた掌がじんわり汗ばんでいた


いつもなら…
いつもなら懐かしそうに微笑んで駆け寄ってくるのに
今日は一体どうしたのだろう
その場に立ち竦むイナを見て、テジュンの不安は膨れ上がる
まだヨンナムが好きなのか
一夜明けたらまたあの男が心を占めたのか
だが、戸惑っているようなイナの様子を見てそうではないと感じた
では、あの憎たらしい友人達が言うように、イナはとうとう自分に愛想をつかしたのだろうか
昨夜、一瞬ではあったが甘い時を過ごしたというのに
イナから視線を外し、目の前の空間に視線を泳がせながら、テジュンは比較的近い過去を振り返ってみた


外された視線に寂しさを感じ、イナは小さな声を漏らした
テジュンの傍へ行かなければ…
テジュンの名前を呼ばなければ…
いつもは容易なことが、なぜ今できないのか
ふわりと俯くその人の横顔にどきりとする
憂いを帯びて伏せられた長い睫毛に首筋がざわつく
ごくりと唾を呑み込み、意を決してその人の名を呼ぼうとした時、問い質すような瞳がイナを射抜いた


確かにラブに甘えた
でもイナだってギョンジンを甘えさせていたし
それはお互い様だろう?
そんな風に思うのが身勝手なんだろうか
違う、違うな、そんな事じゃない
チョンエの問題で泣き喚いていたヨンナムに、今になって心を動かされたとでもいうのか?
あんなに僕を愛おしそうに見つめてくれたのに…

テジュンは思いつく限りの事柄を頭の中で箇条書きにした
こんな風にされる理由は、やはりわからなかった
顔を上げてイナを見つめた
言いたいことがあるならはっきり言え!とばかりに
目と目が合った瞬間、テジュンはイナが怒っているのではないと理解した


尖った視線が、自分を見た瞬間に和らいだ
ああ、なぜこんなにも自分は不器用なのだろう
この人を手繰り寄せたいのに、どうして気の利いた言葉を思いつかないのだろう
テジュンの好きな仕種は知っている、なのにどうして今日に限ってそれができないのか
わからない
自分は一体どうなってしまったというのだろうか
やがてテジュンが困ったように微笑むと、イナもそれにつられて引きつったように微笑んだ


唇の片端を、ぎこちなく上げたイナを見て、テジュンはフフッと笑った
なにを緊張しているのか、またなにか悪さでもしたのだろうか?
しょうのないヤツ。それでも僕はお前が好きだから、強張らなくてもいい。飛び込んでおいで…
そんな気持ちで両腕を広げた
しかしイナはその場に立ち竦んでいた
ようやく動いたかと思うと、くるりとテジュンに背を向けてcasaの工房のドアに向かって歩き出した
なんなんだ?どういうことだ?僕が何をしたというのだ?と、イナに疑問をぶつけようとした時、歩を止めてイナは振り返った
ほんの少しだけ
恥ずかしそうに
横顔を見せてわずかに首を傾けた
頬のラインの向こうの小さく隆起した唇が、甘えるように薄く開かれている
ちらりとテジュンに視線をやり、それからもう一度、ついて来いというように首を傾げた
テジュンは再びフフッと笑ってゆっくりと彼の後に従った


なんだ短い散歩だな、三歩しか歩いてないのか?くっはっは、というチェミの張りのある声に向かって、テジュンはお久しぶりですと挨拶した
おや、濃顔さんのお出ましか、いいところに来たな、イナが今までに焼いたパンの中で最高の出来のものが今焼きあがるぞ、よかったな濃顔さんよ、と普段からは想像もできないような可愛らしい笑顔のチェミに肩を叩かれ、テジュンは、はぁどうもと頭を掻いた
ほどなくイナのパンが焼け、ほかほかと柔らかい姿をテジュンの前に現した
前に初めてイナの作ったパンを見たときの感動が甦ってきた
これがイナの生み出したパンだ
テジュンは再び幸せな気持ちに包まれた
パンはな、焼きたてはどれも美味い。しかしパンが本当に美味しくなるのは、焼いてから三時間後なんだ。但し、うまく焼けたパンに限るがな。でな、今日のイナのパンは、できたての今より三時間後の方が確実に美味いと思うぞ濃顔さんよ、くっはっはっ、このっ、このっ…
テジュンはチェミに小突き回されながら、可愛らしいパンを見つめていた


Casaのリビングに通されたテジュンは、テスや闇夜やはるみの歓声に迎えられ、テーブルについた
籠に入れたイナのパンをそっとテーブルに置くと、テスが、三時間後コースだね?と笑った
イナはテソンのいるキッチンに向かい、テジュンの分も昼飯を作ってくれるように頼んだ
テソンはにっこり微笑んで、よかったねぇと呟いた
キッチンの陰から、イナはテジュンを見た
長い睫毛と長い指を見つめ、柔らかな微笑みを湛えた唇を見つめた
イナシ、どうしたの?テジュンさんのところに行ってきなよ、出来たら持っていくからさ
テソンに声をかけられたが、イナは虚ろに返答しただけで、その場から動こうとしない
その背中にそっと近づいてテソンはイナの顔を覗き込んだ
イナはどぎまぎとした様子で浮ついた笑い声を立てた
お、俺も手伝うからさ、あは、あはは
誤魔化すイナを10秒ほど見つめ、テソンはパスタを入れた鍋のところに戻った
それからもう一度イナのところに行くと、イナにあーんと口を開けさせ何かを放り込んだ

「ん?チョコレート?」
「うん。どう?」

口の中のチョコレートをイナはじっくりと味わった
甘いチョコの下からほんの少し苦味が顔を出した

「あ…これ…」

イナが思わず呟くとテソンはにんまりと口角を上げた

あれはいつだったろう。BHCの厨房で、今と同じようにテソンが口に放り込んだチョコ。あの時に感じたほろ苦さだ
それから…そうだ、このcasaの中庭でテジュンと話をした時にもテソンがチョコをくれたんだ

ほろ苦さの後に上品な甘ったるさが広がった

「…あ…れ?違うかな?」
「ん?」

中庭でテジュンに放り込まれたチョコは確かに甘かった
けれどこんなに甘味が強かったろうか?

「美味しい?」
「…うん…美味しい。甘くて苦くて甘い」
「ぷ」
「なんか…前に貰ったチョコの苦味に似てるような気がするんだけど、同じ店のチョコ?」
「くふ。同じだよ」
「やっぱり同じ店?!俺の味覚結構すごいじゃん!」
「違うって、おんなじチョコなの」
「へ?」

真ん丸になった瞳を可笑しそうに見て、テソンはイナの頭をイイコイイコするように撫でた

「…なんだよ…」
「やっと味が解ったんだね。よかったね、イナシ」
「へ?」
「ぷくくく」

味が解った?よかった?
どういうことだと問い詰めてもテソンはにこにこと微笑みながらイナの頭を撫で続けるだけだ
そんな風にされるのは嫌ではなかった。テソンの微笑みの優しさと口に残るチョコの甘さを感じながら、イナはまたテーブルにいるテジュンを見た


「ほらっ!テジュンさん、これいいでしょ?」
「ふはは。チェミさん、かっこいいじゃないですか。現役の海賊に見えますよ」
「ぐぇほっ」
「イナシもこんな風になるよ(^o^)」
「お…。…似合うなぁ…ピンク…」
「でしょでしょ?くひひ」

テーブル近くに置いてあるパソコンには、チェミやテス、テソンや闇夜、それにイナの画像が映し出されており、それぞれにバンダナが巻かれていた
テジュンは嬉しそうにそれらを眺めている。その横顔や笑い声に今更何故いちいちどきどきしなくてはならないのかと、イナは不思議でならなかった
自分に向けられる瞳をまともに見つめ返すことができない。昨日の夜は普通に話をしたのに、今はそれさえもできない
何か言いたいのに、言葉を発すればしどろもどろになりそうだ
口の中にはまだ甘さが残っている。長く付き合っているというのにどうして今日はこんなにぎくしゃくしてしまうのだろう

「イナシ、もうすぐ出来るから持ってって」
「え?」
「テジュンさんとイナシのパスタ」
「え?あ…はい…」
「きのことキャベツとハムのポン酢仕立て。和風だよ」
「あ…はい…」
「濃くないからね」
「あ…は…。は?」
「くははは。はい。できた」
「…みんなの分は?」
「こっちは今から大皿に盛るよ」
「一緒でいいのに…」
「いいから先に二人で食べなよ、ね?」

テソンにぐいと背中を押され、イナは二人分のパスタをテーブルまで運んだ
チェミ達と談笑を続けるテジュンの横にパスタを置き、テジュンの皿に取り分けようかどうしようかと迷った
皿はテジュンの真正面にあり、手を伸ばせば彼の視界に入ってしまう。それを恥ずかしく感じるのがどうしてなのか、イナは自分自身にも説明できない
うろうろしているうちに、テジュンは談笑しながら自分でパスタを皿に取り、イナの皿にも同じように取り分けてくれた
しなやかな手を見つめ、イナはぼんやり突っ立っていた。テジュンはそんなイナにようやく気づき、見上げて不思議そうな顔をした

「座ったら?」
「…」

言われるままにストンと椅子に座り、テジュンの手元を見つめた

「美味しそうだね。いただきまぁす」

クルクルとフォークにパスタを巻きつけ、口に運ぶ
その動きに見とれてイナはいつの間にか口を半開きにしていた

「なあに?あーんしてほしいの?」

テジュンの優しい声がイナに向けられた。途端にビクリとして、イナは口を閉じ、首を横に振って自分のパスタに食いついた

「ふ。おかしなヤツ。ねね、イナ、あれ見てご覧よ。お前相当可愛いよ」

笑顔で自分に話しかける男から目を逸らし、ただうんうんと首を縦に振る
そんなイナをテジュンは訝しく思った

イナはどぎまぎしている自分を隠すようにパスタを巻きつけたフォークを口に運んだ

「そんなにいっぺんに口に入るなんて。お前ってすごいなぁ」

楽しげなテジュンの声にまた心臓が躍る。加速をつけてパスタを押し込むイナはいつもと違っている
単に恥ずかしがっているだけなのか。何故恥ずかしがるのか。わけが解らずテジュンは困惑する
自分の皿のパスタを無理矢理平らげたイナは、ガタンガタンと椅子から立ち上がり、頬を膨らませたまま、ちょっと深呼吸してくるとハッキリ告げてそそくさとcasaのリビングから出て行った
その後姿を、テジュンは寂しそうに見送った


階段を降りながら、口の中のパスタを喉に送り込み、イナはため息をつく
なんで逃げ出す。テジュンが変に思うじゃないか。いや、だから逃げてきたのだ。外の空気を吸って落ち着きたい。そうすれば元通りの自分になれるはずだ
イナは自分に言い聞かせるように頷き、外へ出た

大きく深呼吸をする
いい天気だ
自分の心にテジュンが満ちている
だからいつものように
甘えたり
微笑みあったり
触れ合ったりすればいい
テジュンはずっと傍にいてくれたのだから
ありがとうと言って
そっとその温かい胸にすがればいい
できるか?できるな?うん…たぶん…
多分…できるだろう…けど…
表通りまで行って帰ってこよう
そうすれば動悸も治まるはずだ

歩き出すイナを呼び止める声がした
顔を上げ見た光景に、イナは混乱する

数十分前の既視感
数分前の記憶
同じ顔が同じようにそこにいて自分の名を呼ぶ
夢だったのか?今までの事が
それとも今この事が夢なのか?

「飯、食いに行こ」

呆然としているイナに近づいたのはテジュンではなかった
屈託なく笑うその顔を穴の開くほど見つめたイナは、心臓が規則正しく打っている事に気づく
それから、目の前の人物がヨンナムであると呑み込んだ

「さ、行こうよ。ね?」
「…な…んで?」
「なんでって。いつもお昼一緒に行くじゃん」

当然のように言ってのけるヨンナムに対して、腹の底で煙が燻るのを感じた
それは…貴方が孤独な人だったからじゃないか。寂しそうだったから付き合ってたんじゃないか
いや、そうではなくて…。俺はこの人が好きだったんだ。確かに好きだったんだ

ヨンナムは微笑みながら更に近づいてくる

チョンエが…
チョンエがいない時は…俺?

ヨンナムの心を深読みし、イナは腹立たしさを感じる
そんな気持ちなど知る由もないヨンナムは夢見るように呟く

「あのねぇ、今度チョンエが来た時にね、行きたいなって思ってるレストランがあるんだ~。その下見に付き合ってよ。ね?」

なんだって?
チョンエと行くためのレストラン?
そこに何故自分が行かなければならないのだ?

イナは返事をしなかった

「えへへ。あの店ならチョンエ、喜ぶかなぁ…えへへへへ」

この人は俺の気持ちなどこれっぽっちも考えやしない
なんて男だ…

怒りの導火線に火を点けるために、イナは低い声で答えた

「…俺は行かない…」

イナの声が硬く響き、ヨンナムはハッとした
それから怯えたようにイナの瞳を覗き込んだ

「…なんで?」

なんで?
解らないのか?
俺は、ついこの間まであんたに気持ちを寄せていたんだぞ!
その俺の前でなんだってチョンエの話を嬉しそうに…

うっすらと憎しみさえ覚えたが、感情を隠したままイナはヨンナムを見つめ返した
すがるような瞳を見ても動じない

「…怒ってる?」

当たり前だ。怒る理由だって解るだろう?

イナが答えずにいるとヨンナムはくるりと身を翻し、背中でイナを批難しながらとぼとぼと歩き出した

まったく
どうしてこの男は人の気を引きたがるのだろう
そしてどうして俺はその釣り針に、自ら引っ掛かってしまうのか

息をひとつ吐き棄て、イナは硬く強い声音で言った

「テジュンが来てるから行かない」

振り返った顔に疑問符が浮かんでいる

「え?テジュン、会社に行ったよ」
「昼から休み取って来たんだ、ここに」
「…え…。…。そっ…か…。じゃ、ダメだね…」

意気消沈して乗ってきたトラックの方に向かう背中を、イナは睨み付けた

まったく
どうしてこの男は…
そしてどうして俺は…

もう一つ息を吐き棄てると、イナは寂しげな背中の後を追い、肩を掴んでこちらを向かせた
目を逸らしたヨンナムを見つめると再び腹立たしさが湧き上がる

なんなんだ
俺が悪いのかよ
俺のせいで傷ついたってのかよ

イナが怒鳴りつける前に、ごめん、という小さな声がした

「知らなくて…テジュンがいるなんてさ…ごめん」

申し訳なさそうに俯かれると、イナは何も言えなくなる
肩から手を離し、大きくため息をつく

「…ごめんって言ってるじゃないか!」

声を荒げ、ヨンナムは目に涙を浮かべた
まるで子どもだ
イナは怒りを忘れて呆れてしまった
むくれたまま車に向かうヨンナムを横目で見る
放っておこうかと思う
二人の間に小さな風が吹きぬける

花の香り…

そこに花など咲いてはいないのに、イナは爽やかで甘い香りを感じた
唐突に、イナはその事に気づく

そうか
だからか…

閃いた真実にクスリと笑い、またヨンナムの背中を追う
腕を掴むとムキになって放せよと喚く

そうか…貴方にとって『俺』ってのは…

出会った頃のヨンナムは、随分落ち着いた大人に見えた
知る程に彼の中の少年が露わになった
一突きの針の穴から幼い彼が滴る
真下にいたのはイナで、一滴も洩らさず受け止めようと思っていた

できなかったな…
けど

「ヨンナムさんも一緒にどう?」

初めて柔らかく微笑んでイナは言った

「casaの昼飯、一緒に食う?」
「…。…。いいの?」

涙が引っ込み、満面の笑顔になる

まったく
この男は…
そして俺は…

「大丈夫だ…と思う…多分ね」
「いなっ!」

嬉しそうに短く叫んで抱きつくヨンナムに、心臓はクスクスと笑うだけで張りつめもしない

俺にとって『貴方』も…

またふわりと花の香が漂った
イナはふと空を見上げる
晴れた、気持ちのいい空
雲が一つ、二つ…ああ…
ヨンナムの背中にそっと腕を回して体を包んでやる

「ねぇおなかすいた~♪」
「…ん…。じゃ、行こうか」

優しくヨンナムの腕を引く
頭の中がお花畑だから仕方がないか…
口元を緩め、イナはヨンナムを連れてcasaのリビングに向かった


皿のパスタを巻きつける
イナが巻いたと同じくらいに
口元に運ぶ
入るわけがない
皿に戻して適量を巻きなおす
口元に運ぶ

つまらない
どうしてここにいないんだ
つまらない
あいにきたのに

何を思い、何を感じるのか
まだわからない
わからないことだらけだから
もっと知りたいのに

籠の中のパンを見つめる
フォークで突こうと試みて止め、テジュンは水を飲み干した


「テソ~ン」

階段を上りきったイナがテソンを呼ぶ
丁度casaの4人のためのパスタをテーブルに運び終えたテソンは、リビングから階段に向かった
イナが頼んだ昼食の追加にテソンは快く頷く。イナは階段を振り返り、一言二言声をかける
その様子をぼうっと見ていたテジュンは、イナの後ろに現れた顔が迫りくるにつれ脈拍が早くなるのを自覚した
イナは先程と同様自分の隣に座り、イナの隣にヨンナムが座った
Casaの4人のために作られたパスタから、イナがヨンナムの分を取り分ける
テソンが水の入ったグラスをテーブルに置く
礼を言うヨンナム、多目に作ったと答えるテソン、にこやかなcasaの人々、そしてイナ
笑えずに取り残されている自分。キリリと痛みが走る。どこが痛いのかわからない
和やかに進んでいる会話。耳に入らない
イナの笑顔はヨンナムとcasaの人々に向けられ、自分には与えられない
ぼんやりと二人を見る。安心しきったヨンナムの顔といつもより大人びたイナの顔
ヨンナムがパスタを巻きつけたフォークを差し出すと、イナはそれにパクリと食いついた
微笑みあう二人には新しい絆ができたように思う
どういった絆?
割り切った仲?
まだ好き?
まだ惹かれる?
動けず、喋ることもできず、ほわわとした夢の中で自分だけが金縛りにあっている
ヨンナムの長い指が籠の中のパンを掴み口へ運ぶ。ヨンナムはそれを齧る。美味しいと言う
ヨンナムの長い指がまた伸びる。もう一つパンを掴み口へ運ぶ

「バクバク食うなよ!皆の分だぞ!」

ようやく吐き出された言葉は以外にも強い調子で、テジュンは自分自身驚いている。そしてこれが夢ではないと確信する

「いいじゃん。イナもチェミさんもいいって言ったもん」

悪びれず唇を尖らす従兄弟を忌々しく思う

「お前はいつも厚かましい。親しくなればなるほど厚かましくなる」
「…。それ、普通じゃん。なぁイナ?」
「え?あ…うん…」

イナはどきまぎして俯く。自分が関わると怯えた素振りを見せるイナにテジュンは距離を感じる

「…そのパンは…三時間後がうまいんだ」

だから僕は待っているのだとイナに伝えたい。イナの作った『最高の出来』のパンを『最高の状態』で味わうために

「今って何時間後なの?」
「え?えと…1時間ぐらい…かな?ね?チェミさん」
「お?ああそうだな」
「ふんじゃ、今の味覚えといて二時間後に味くらべしよっと♪もう一個いただきまっす♪」

バクバクとまた一個、宝物のパンを食べるヨンナム。可笑しそうに笑うイナ

比べてもわかんねぇよきっと。うんにゃ、僕にはわかるもん…

なぁ、どうしてその会話を僕としてくれないんだ?どうして僕から目を背けるんだ?
鼻の奥がツンと痛くなり、テジュンは立ち上がる。手にパンの入った紙袋を持ち、テソンにごちそうさまを言ってリビングを出る
もういい。もういい…
楽しくなるはずの昼食がどん底になった
イナは自分と距離を置きたいのだろうとテジュンは感じた。ならばこの場から去ろう、テジュンは階段を早足で降りた


突然立ち上がり遠ざかる背中を、イナは驚いて見つめた
あ…髪が少し伸びたんだ。ゆるやかなウエーブが出ている
イナシ、追っかけなきゃ!とテソンに言われ、早く早くとテスに急かされイナは立ち上がる
あいつはすぐにいじけるからなぁ
ヨンナムの呟きに弾かれたようにテジュンの後を追う
階段を覗きこんだがそこにはテジュンの影もカタチもない
にわかに切羽詰ってイナは駆け下りる
薄暗い倉庫で光るバイク。テジュンを追わなくてはと外へ走り出る
明るい陽の光。車の傍の項垂れたシルエット。何をやってるんだ、俺は…
唇を噛みしめ、イナはテジュンに近づく。今日の自分は変だ。テジュンを意識しすぎている
普段通りに話しかけたい。いつものように触れ合いたい。そう思っているのにそうできない
結果、テジュンを悲しませているとようやく気づいた
勇気を出そう。イナは拳を握り締め、テジュンの背中に近づく
息を吸い、声を出す

「…テジュ」

振り返ったテジュンはイナを助手席に押し込め、運転席につくと車を発進させた
何が起こったのか理解できないまま、勢いに揺さぶられてテジュンの肩にぶつかった
テジュンは車を急停車し、いきなりイナに覆いかぶさった
頭のてっぺんまで一気に血が昇り、イナは目を白黒させた
カチャカチャと音がする
テジュンはイナから離れ、アクセルを踏み込んだ
多少揺さぶられたものの、今度は座席に貼りついたままだった

なんだ…シートベルト、締めてくれたのか…

ほっとしたと言うべきなのか、がっかりしたと言うべきなのか、その感情をイナは説明できない
急激なアップダウンにイナの体も心もついていけずにいる
いつもより乱暴な運転に対応するのに精一杯で、イナはシートの端にしがみついていた

幾度かの急カーブと幾度かの急発進、そして急停車を繰り返し、テジュンの車はエンジンを止めた
無言のまま車を降り、数歩離れたところで車に背を向けて突っ立っているテジュンを、イナはくらくらする頭を抱えて見つめた
数十秒過ぎてから、ここで降りるのだと気づく
よろけながら助手席を離れバタンとドアを閉めると、テジュンはつかつかと運転席側のドアに寄り、キーを閉めた

古い車だもんな…

テジュンが不機嫌だという事はよくわかっている。自分の態度がそうさせているのだという事も
大股で歩き出すテジュンの背中を追いかける。追いかけながらどうしてここへ来たのか考える

ヨンナムさんの公園…

正しくは、いや、正しいわけではないが、『ヨンナムさんの「彼女」の公園』だ。その『彼女のいる場所』に、テジュンは真っ直ぐ向かっている
何がしたいのか、何を考えているのか、それは…

そんな事はどうでもいい

動悸が治まったイナは、もう一度テジュンの背中を見る
『あいつはすぐにいじけるからなぁ』
ヨンナムの声が甦る
いじけてる?拗ねてる?珍しい。あのテジュンが?
珍しいだろうか、いじけたり拗ねたりするテジュンは…
自分の前では常に『大人』でいるテジュン…『大人でいようとする』テジュン、『大人でいたがる』テジュン…
こんな風に、何も言わずに拗ねることなどなかったような気がするが…

もしかして甘えてるのか?この俺に?

そう思い至ったイナは、じわりと心が緩むのを感じた
今までだって見逃していたのかもしれない、こんなテジュンを…
いや、待てよ…そうだ、祭が終わった後、こっちに帰ってきたテジュンが自分に取り縋って泣いたことがあった
一度、別れようとしていた時も、珍しく酷い言葉を吐いたように思う
あれは俺に甘えていたのだろうか?
それと…さっきのあれは…
襲い掛かられるのかと勘違いするようなシートベルトの締め方。それはイナの親友の『得意技』の一つだ

どこにも共通点が見当たらない二人の男を思い、イナはニヤリと笑った
遠ざかる背中をゆっくり追いかける
今度は見失わない
随分大股で歩き去ったのに、さほど距離は遠くない
どうやら時々立ち止まってイナの様子を窺っていたようだ
それに気づくと余計に顔がにやけてしまう
手を伸ばせば届くところまで追いついて、ふと、その手を取ることが出来なかった過去を思い出す

もうしない
そんなこと、もうしないから

思い切り手を伸ばしテジュンの左手を掴む。ビクリと反応する様子をイナは楽しく思う
さっきまでの自分は恥ずかしがって固まっていたのに

「形勢逆転」

小さな声で言ってみた。無視された。それでも楽しいと感じる
掴んだテジュンの左手の指の間に、自分の指を絡ませ、掌を合わせる。これも『親友の得意技』だ
テジュンの唇からため息ともつかない声が漏れる
そして俯いたまま、ゆっくりと進む。歩調を合わせてイナも進む。行く先はわかっている

テジュンはイナの手を振り解き、先に『ヨンナムの神聖な場所』に入った
木々に囲まれたその場所のほぼ中央に立ち、テジュンは空を見上げ、目を閉じた
ここはテジュンにとっても『神聖な場所』なのだと、イナは理解した
暫くして、イナはそっとテジュンに近づいた。『彼女』のいる空に向かい続けるテジュンの体をふわりと包む。そうしているのは自分なのか『彼女』なのかわからない
この場所にくると『彼女』が降りてくるように思えてならない
小さな風が、イナの髪を乱す

違う?気づいてるだろうって?傍で見ていたっての?
じゃ…
俺の背中を押してくれた小さな風は君だったのか…
花の香りのするあの…

小さな風こそが、ヨンナムさんとテジュンの『彼女』だったのかもしれないと、イナは思った

Casaにはいい風が吹くからね…

微笑んでテジュンを抱きしめる
強張る体を包み込む
テジュンの鼓動が早くなるにつれ、自分は逆にゆったりとした気持ちになる
静かにテジュンの名前を呼び、言葉を続けてみる

テジュン、俺は『愛』がどんなものか、まだよくわからないけど
今、俺がお前に感じている気持ち、『好き』とか『大好き』とか言うだけじゃ物足りない
だから、多分、『愛してる』って表現するほかないんだろうな…

…なんだそれ…

愛してる、テジュン

…なんだ…それ…

テジュンはイナの肩に顔を埋め、感情を隠す。微かに震える髪に鼻先を突っ込んで、イナはテジュンの香りを胸一杯に吸う
また、花の香りがした
空を見上げてイナは微笑む。ありがとう、テジュンを振ってくれて…
『彼女』に心の中で告げた途端、イナはきつく抱きしめられた
それから暫くの間、耳元でパンの入った紙袋のカサカサいう音と嗚咽を聞きながら、イナはテジュンを優しく包んでいた


こんなにお前が可愛かったなんて  ぴかろん


ちょうどみぞおちのあたりにテジュンが突っ伏している
Casaを出てからこっち、「なんだよ、それ」と二回言葉を発したきり、テジュンは口を噤んでいる
その分、俺が喋らなくちゃとあれこれ話をするのだが、テジュンは突っ伏したまま動こうとしない

ヨンナムさんの『聖地』を出て、大きな広場の端にある大きな木の下に寝転がった俺に、まるで蝉のようにしがみついている
『饒舌なイナは動揺している証拠だ』とよく言われるが、今の俺は動揺などしていない
伝えたいのは些細な事ばかりだけれどテジュンには知っていて欲しいと思う。自分が何を思い、どう感じるかを
伝えなければわからない。どんなに親しくても、だ

拗ねてるのかと尋ねると、やっと首を横に振った。怒っているのかと聞いても同じようにする。じゃ、甘えてる?それには答えない
ふぅん、甘えてるんだ…ふぅん…。そう呟くとテジュンはより一層俺に強くしがみついた
こんな時テジュンはラブを求めてた。それが初めて真っ直ぐ自分に向かっている。嬉しさを感じる。ゆるいウェーブをそっと梳く

気になったの?ヨンナムさんのこと…

しがみついている拳がぎゅっと握られる。ちゃんと初めから説明しよう。俺は言葉を続けた
Casaの駐車場でテジュンを見た時のときめき。リビングのテーブルに座っているテジュンをキッチンから盗み見ていたこと
何故だかとても恥ずかしくてたまらず、息苦しくなって外に出たこと。そこに居たヨンナムさんに驚き、昼食に行こうと言われ腹を立てたこと
そこで言葉を止めてテジュンの様子を窺う。だが、テジュンは変わらず突っ伏したまま

なんで腹が立ったと思う?…聞いてみても答えない。俺は言葉を続ける
あのね。チョンエが帰った途端、俺なのかって思っちゃったの。暇な時は俺で時間を潰すのかって…。だけど違ったみたい。ただ、アドバイスを求めに来ただけなんだよ。あの人の頭ン中はチョンエで一杯になってる。お花が咲いてるよね、ふふふ。
つい最近まで俺がヨンナムさんを好きだったって解ってるだろうに、酷い男だって腹が立ってさ…。だから言ってやったんだ、テジュンが来てるから行けないって。そしたらあの人いきなり拗ねたんだぜ、子どもみたいに…
俺、きっと、あの人のそういうところに惹かれたんだろうな…お前に無いところ、見せられて
けど…

知らなかったテジュンを見た。拗ねて機嫌を直さないテジュン。俺にしがみついて甘えるテジュン
それは確かに従兄弟殿にそっくりで…その上テジュンには従兄弟殿に無い部分がある
いや、待てよ。ヨンナムさんにも『大人』な部分はあるんだろうな、俺が知らないだけで…
あの人のそんな部分を見せられたら、俺はまた揺れるだろうか?
心の中で呟いてみた。テジュンの拳が固く握り締められる。おや、不思議。俺の思うことがわかるのかな?なんて、妙に余裕を持ってテジュンを観察する
動かなかったテジュンが、突然ガバッと顔を上げた。なぁんか、くしゃくしゃの顔。それもまた可愛い

「どした?」
「…なんじ?」
「えっと…三時半」
「ええっ!ああっ…もう…もうだめだ…僕はもう…あああ」
「どしたんだよ!仕事の約束でもあった?すっぽかしたのか?」
「…ぱん…」
「ぱん?」
「…さんじかん、すぎた…」
「…」
「もう…さいこうのあじじゃない…」
「くはっ。あははは」
「…」

笑い出した俺をくしゃくしゃの顔で睨むと、テジュンは背を向けて顔を覆った

「はは。大丈夫だよぉ、今日のパンはいつ食べても美味しいはずだ」

だってお前への気持ちがこもってるもん

「食べようよ、テジュン」
「…もう…だめだもん…美味しさが減った…」
「減らねぇよ。俺が作ったんだぜ。美味いはずだ。ほら、紙袋ちょうだいよ」
「…」

テジュンは背を向けたまま、紙袋からパンを取り出し、ぱくりと食べた
スンスンと鼻を啜る音がする
味、わかるかなぁ…

「ぐすっ…減った…美味さが減ったもんぐすっ…。もうだめだ…もう…」
「どれ?」

テジュンが食いかけのパンを横取りした
一口食べると確かにいつもより柔らかい。生地を見てみるといつもよりきめ細かにできている
噛めば噛むほど甘味が増す

「すげぇじゃん!俺、天才かも」

ちょっと大げさに騒いでみた。が、テジュンは乗ってこない

「…まずいか?」
「…味がわかんない…ぐす」

それは泣いてるからだろう!…え?泣く?テジュンがくすんくすん泣いている?
俺は慌ててテジュンの顔を覗き込んだ。そうだよ、さっきから鼻啜ってたじゃん。泣いてたんだ、テジュン

「…なんで泣いてるの?」
「…さんじかん、おいしいときにたべそこねた…くやしい…」

ああ…。こういうのを『萌え~』とか言うんだろうか…ああ
あんまり可愛らしくて抱きしめてしまった。こんなテジュンは滅多に見られない

「たべたかったのに…。さいこうのあじ、おまえの、ぱん、おいしいときに、たべたかったのに。まってたのに…いちばんのとき、まってたのに…」

ぐすぐすと泣きながら呟くテジュン。子どもの頃のテジュンが見えたように思う
そんなに俺のパンの『最高の時』を待っていてくれたのか…。過ぎちゃったけど

「にどとたべらんない…にどと…」
「…。失礼な!今度焼く時は今日以上に美味しいパンができるさ!」
「…」
「俺、今とっても幸せだから。明日は今日よりもっと幸せになれるから。だから…今日より美味しいパン、味わわせてやる。待ってろ」

テジュンは俺に抱きつく。俺はテジュンの背中を撫でる。気分いいな、頼られてるって結構嬉しい

そのまま公園でのんびりした時間を過ごし、二人で店に向かった。テジュンのアクターは運転しにくかった

*****

アクターのせいなのか、運転技術のせいなのか、はたまたテジュンかあんまり可愛かったからなのか解らないが、俺が店に着いたのは開店時刻を過ぎていた
テジュンを伴い、裏口からこっそり入ると、「遅い!」というイヌ先生の声が響いた

「センセー、渋い声だね~」
「第一声がそれ?」
「…。ごめんなさい、遅くなりました」
「予約の指名入ってないからいいものの、困ります、こんなことじゃ!」
「すみません、車の調子が~」
「車の調子は悪くないもん。イナの運転が悪いんだ」

俺の後ろでブツブツ言うテジュンに気づき、先生はおやっという顔をした

「テジュンさん、いらしてたんですか…。なんだかいつもと雰囲気が違うね」
「うん。可愛いんだよ、今日」

先生にそう答えると、可愛いってなんだよと口を尖がらせる

「確かに、今日、可愛いですね、テジュンさん」

追い討ちをかける先生
テジュンはますますムッとする

「今日もまたMBK揃い踏みだなぁ」

先生か呟く
MBK揃い踏み?

「どういうこと?」
「ヨンナムさんが来てらっしゃいます」
「そう言えば駐車場にトラックかあったけど…配達じゃなくてまさか客で?」
「そうみたい…」

テジュンと俺は慌てて店内に入って行った
見渡すと、確かにMBK顔が二つある
ソクのバーカウンターにとまっている

「ヨンナムさん、どうしたの?珍しいね。配達終わったの?」

もう一つのMBK顔を連れて、俺はヨンナムさんに声をかけた

「終わったから飲みに来たのに酒くれないんだ、ソクさん」
「ヨンナムさん、ダメですよ、トラックで来たんでしょ?」
「うん。でも飲む」
「飲酒運転禁止です」
「トラック置いていく」
「明日の朝も配達あるんでしょ?」
「ある。朝取りに来る」
「何言ってるんですか!ダメです!邪魔になります!」
「ソクさんってケチだなぁ。いいじゃん一晩ぐらい」
「とにかくダメです」
「あ、じゃ、テジュンに運転してってもらうから」
「テジュンも車だよ」
「それ置いてって僕のトラック運転していけばいいじゃん」
「ダメです!邪魔になります!」
「ソクさんのケチ」
「とにかく!ヨンナムさんもテジュンも、ドライバーは飲んじゃダメ!いいね?」
「僕、飲む!」
「ヨンナムさん!」
「ソクさんが運転してってくれればいいじゃん!ケチ!」
「だめっ!」
「じじい!」
「絶対だめ!」

ソク爺と、同じ顔をした孫ヨンナムの言い争いを、ぽやんとしたテジュンがぽやんと見ている
たまらない可愛らしさだ
今夜どうしよう…なんてチラリと考えてしまった
ある意味ずっと俺が望んでいた『入れ替わり』可能な夜かもしれない…でも…
こんなテジュンを…げへっ…お…俺にはムリかもしれない…
こんな…可愛らしいテジュンをあんなそんな…できない…
それよりそっと抱きしめてずーっと背中を撫でながら寝顔を見ていたいなぁ…くふふ

「イナさん、めちゃくちゃ顔が緩んでますよ」

スッキリした声の主はいつの間にかカウンターの中にいたスヒョクだ

「お…おおスヒョク。相変わらず爽やかだなぁへへへ」
「…。爽やかすぎて退屈ですけどね」

本気まじりの冗談といった風にスヒョクは呟いた
ソク爺が俯く
穏やかなんだけど穏やかじゃない
進みたいけど進めないっつー状況か…

「んー。なるようになるさ、スヒョク」
「…。なんのことですか?」
「…えと…いや…その…」

静かだが強い語気のスヒョクに、ソク爺はますます俯く

「そんなことより、テジュンさん、なんだかすっごく可愛いな」

スヒョクは優しげにテジュンに微笑みかける
テジュンは顔を上げてスヒョクを見、また恥ずかしそうに俯く
俺はテジュンをスツールに座らせて、何かつまみになるようなもの頼んでくるからと言い残し、厨房へ向かった
背中からソクが、つまみじゃなくて食事だぞ!いいな!と叫んでいる
入れ違いにいかつい男がカウンターに向かった
客?
厨房のドアを開けると中から『えばり仕様』のテスが飛び出してきた
ということは

「ちょっとテス、今のいかつい男、ジョンダル?」
「あ…ああイナさん、そうだよ、ジョンダル」
「お前珍しいね、今日こっちのヘルプ?」
「違うよ。今日はお客」
「へ?」
「接待っていうかヘッドハンティングっていうか…ま、ちょっとね」
「ヘッドハンティング?パンやの?」
「ちがーう。とにかく、僕はお客様なんだから、そこどいてよイナさん」
「あ…ああごめん…」

えばりテスは外股気味にえばってジョンダルのいる方に歩いて行った

「ねぇ、何あれ?」
「イナシ、遅刻ぅ」
「…あは…」
「イナシ、大人顔になってる!何かあった?」

テソンはニヤリと笑いながら言った

「うーん、特にこれと言って何かあったわけじゃないけどぉ…」
「casaにいたときは随分恥ずかしがってたのに、今は堂々としてるね。くふふ。どぉしてさ」
「うーん…そぉだなぁ…形勢逆転したから…かな?」
「(@_@;)け…形勢逆転ってまさか!まさか!『役割が入れ替わ』ったとか?!」
「ま、ある意味そうかもね。それよりつまみのような食事のようななんか作ってよ」
「…ややこしい注文だなぁ」
「テジュンに食べさせてあげるの」
「ふーん。テジュンさん、パン食べたの?」
「うん。泣きながらね」
「泣きながら?イナシ、テジュンさんを泣かせるほどあれこれしたの?!(@_@;)」
「…。言っとくけど色っぽいことは何にもしてないよ。ただ、パンが出来てから三時間半経っちまったからさぁ」

俺がそう言うと、厨房の奥で背中を向けていた闇夜が「ぶふっ」と吹き出した

「ところでテスはどうしたの?なんだか懐かしい雰囲気の服着てたけど…」
「ぶはははっ」
「mayo、笑っちゃ可哀想だろ?ジョンダルの前ではテスは『ヒョンニム』なんだからさぁ」
「解ってるけど…くはは」

ジョンダルはテスから任された『なんでもや』に新人を入れたいと考えているらしい。しかも早急に…
随分前にcasaを訪れたジョンダルが、どこぞのお屋敷のカテナチオとやらを開けなければならない、期限が迫っていてあと2日しかないと騒いでいたのだそうだ

「かてなちおってなんだ?」
「かんぬき錠」
「かんぬきじょうってなんだ?」
「…。なんだって言われても…。鍵の一種で、門や建物の両開きの扉なんかにつけた金具に横木を通して開かないようにするような、そういう鍵」
「それを開ける?木を外せばいいんじゃねぇの?」
「それがさぁ、なんだか細工物らしくてさぁ」
「…。じゃ、そのお屋敷、入れないってことか?」
「ああ。お屋敷の門じゃないらしいんだ」
「へ?」
「アンティークの金庫らしい」
「…ふーん…で?開いたの?」
「ジョンダルが集めた鍵職人には開けられなかったんだって」
「…2日で開けなきゃなんなかったんじゃねぇの?」
「2日ではムリだって先方さんもわかったみたいでさ。とにかく何とかして開けてくれないかってことでね、何人もトライしてんだけど開かないんだって。それで、今日、ジョンダルがヘッドハンティングに来たんだ」
「ふーん。んな鍵なんかチェミさんとか闇夜とかテソンとか、チョチョイノチョイで開けそうじゃねえの」
「それが…ダメなんだよな~。単純なのか難しいのか解んない構造でさ」
「ふーん…よくわかんないけど、うまくいくといいな」

とにかく子分の大事な仕事だからテスは張り切ってるんだな…と思った

*****

イナが厨房へ向かうのを確認して、スヒョク君は僕の正面に立ち、カウンターに腕を伸ばした

「テジュンさん、とっても可愛い」
「…やだな、スヒョク君。かわいいなんて…」
「ほんとだよ。抱きしめたくなっちゃう」

ソクが傍にいるのにスヒョク君は僕に優しく微笑みかける。ソクが見つめているのにお構いなしだ
いいのかな…ちょっとソクに申し訳ないな…
ソクはとっても不機嫌そうだ。わかる。その気持ち
今日の昼間、僕は同じ思いを味わわされたから。うん。わかるよ、ソク

スヒョク君とほんわかとした時間を過ごしていると、イナが消えた厨房方面から、なにやら黒っぽい服を着た『海坊主』のような男がこちらに近づいてきた
『そのスジのヒト?』といった風貌のいかつい男だが、なんとなしに目が可愛らしい。僕はこの手の『ガタイの良い男』が『危険かどうか』を見分ける目は持っている。ホテルの総支配人だった頃に培った勘と、それから、僕の『あの』『おかしな先輩』のおかげだと思う
僕の『危険察知センサー』が働かないところを見ると、この『海坊主』は危険ではないということになる
しかし、『海坊主』はずんずんずんずん僕に近づいてきて僕の真横に立ち、「お待たせしました」と深々と礼をした
僕はそのスジのモノではないし、『海坊主』と待ち合わせした覚えもない。僕の戸惑い顔を見て、『海坊主』は「あいう~あいう~」と唸りながら小さな瞳をきょときょとさせた

「ジョンダル。その人じゃないよ。あの人」
「あっ。イェ~ヒョンニム」

『海坊主』が声のする方に素早く向き直り、僕にしたよりもっと深い礼をする
その禿頭の向こうにあったのは、いつもより気張ったテス君の顔だった

「ごめんねテジュンさん。人違い。こいつ、図体はデカいけどいい奴だから」

いつもより少しクールに微笑むテス君に、僕は曖昧な返事をする
テス君と『海坊主』は、僕を通り越してヨンナムの横に立ち、お待たせしましたと言ってヨンナムをボックス席に連れ去った
ソクとスヒョク君と僕はその様子をぼんやり見ていた

「なんだろう…ヨンナムさんとテス君とごついオトコ…。不思議な組み合わせだね」
「あ…うん…」

ヨンナムとテス君の共通点といえば…
チョンエさん?
もしかしてチョンエさんを幸せにできなければあの『海坊主』がお仕置きをするとか?
…いや…そういうわけでもなさそうだけど…

彼らは僕達から随分離れた席についた
その表情は全く見えない
ほんの少しヨンナムの心配をしていたら、僕の頬をスヒョク君の片掌がそっと触れた

「よかったね、テジュンさん。イナさん、ふっ切れたんだね、ヨンナムさんのこと」

瞳が微笑んでいる。スヒョク君はとても優しい子だ。イナと僕がうまく行くことを心から応援してくれている。ああ、いい子だな

「ね。なんでそんなに可愛いの?あの、祭りン時のテジュンさんと全然違うね」
「え?」
「俺がイナさんに化けて貴方を誘ったあの時と雰囲気がまるで違うもの。あの時の貴方は自信満々の大人だったな…」
「…。今は?」
「くふ。めちゃくちゃ甘えん坊の男」
「…」
「よかったね、そんな部分も出せるようになって…。こりゃイナさんメロメロだわ、くふふ」
「…そ…だろか…」
「ん?なによ。愛されてるって思えないの?」
「…だってさ…だって…ヨンナムがさ…」
「大丈夫だよぉ。イナさんのヨンナムさんへの態度、『恋愛モード』じゃなくなってるでしょ?」
「…そ…う?」
「えーっ?そんな事もわかんない?くふ。もう。ほんとぉぉに可愛いっ」

スヒョク君は身を乗り出して僕の頭を胸に抱きしめた。ソクが鬼のような形相をしていた…
更にスヒョク君は僕のオデコにキスをした。ソクが…いるのに…

「ほっとけない~。可愛らしすぎるよテジュンさん♪」

そう言って何度も僕のオデコにキスを繰り返した。『鬼』が動いた

*****

スヒョクがテジュンに繰り返しキスをしている。いつものスヒョクじゃない。酒を飲んでいるわけでもないのにどういう事だろう
僕はスヒョクの唇がテジュンの額に触れるたびに心の端っこがチリチリと焦げるのを感じた
何度目かのキスとハグの後、僕は我慢できなくなってスヒョクの腕を引いた

*****

「スヒョク、ちょっと」
「…てっ。なんだよ、俺今テジュンさんと話してるんだからっ」

スヒョク君はソクの腕を振りほどいた。ソクはもう一度スヒョク君の腕を掴んで強引に引っ張った

「痛いっ。なんだよソクさん!俺、接客中なんだぞ!」
「こっちに来て」
「やだよ!引っ張るなよ!」
「いいから来い!」

ソクはスヒョク君を引っ張って裏の廊下に通じるドアに連れて行った

*****

「なんだよっ!離してよ!」

ソクさんが険しい顔をして俺を見つめている。俺はムシャクシャして腕を振り回した。ソクさんの顔や体に俺の腕がぶち当たる。痛い。痛い…

「スヒョク」
「接客中なんだよ!俺、カウンターに戻るから!」

ソクさんを振り切ってドアを開けようとした。ソクさんは俺の両腕を掴み、物凄い力で廊下の壁に押し付けた。痛い。痛い…

「なんなんだよっ!」

睨み付ける。俺は、器の小さい自分を呪い、ソクさんに当り散らしている

「離せよ!はな…」

そうされることを
俺は
どこかで期待していたんだ
俺の唇が
彼の唇に
荒々しく塞がれるのを
期待して…
蕩けたくて…

*****

堪らない
スヒョクが僕と同じ顔の男を抱きしめている
いらだたしい
スヒョクがその男の額にキスをしている
いやだ
許せない
僕のスヒョクなのに

溢れ出る激情を抑えきれず、僕はスヒョクの唇を奪った
抵抗していたスヒョクの息遣いに色がつき始める
僕の舌に応える
ああ…
僕のスヒョクだ
ほっとして唇と体を離した

僕にしか聞こえない溜息のような一瞬の呼吸のあと
スヒョクは僕を反対側の壁に押し付け唇を求めた
あまりの激しさに面食らう
僕のスヒョク
僕を好いていてくれる
愛おしくて強く抱きしめる
長くくちづけながらスヒョクは僕の体に掌を這わせる
その手が僕のベルトを外そうとした瞬間、僕は我に返った

「…ヒョク…」

彼の手首を掴んで時を止めた
スヒョクはハッとして目を泳がせると、やがて力なく笑い呟いた

「…ごめん…。ごめん…なさ…。…。俺…。ごめ…」
「…スヒョク…僕が…」
「俺、戻るね。戻る…」

トンと僕の胸を突いてスヒョクはドアの向こうへ消えて行った
スヒョク
謝るのは
僕の方なのに…



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